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東日本大震災と熊本地震。被災経験者が語る、それぞれの体験と今伝えたいこと

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防災ガールの美咲です。

熊本地震から約5ヶ月、東日本大震災から5年半が経つ2016年9月15日-16日。
実はこの2日間、タイトルにもあるように東日本大震災を経験された4名と熊本地震を経験された7名が集まり「それぞれの被災体験とそこからの学び、これからの防災のために何が必要か考える」という貴重な場に同席させていただきました。

今回この場にお越しいただいている方はみなさんNTTタウンページの社員の方々であり、地域に根ざした全国展開の情報誌を作成している企業の皆さまだからこそ、ご自身の被災経験だけでなく街全体のことを知った上で貴重なお話をしてくださいました。たいへん貴重なお話をたくさん聞くことができましたので、ぜひ皆さんにもお届けしたいと思い、今回レポートを書いています。

 

東日本大震災と熊本地震の違い

被災された方のお話の前に、まずは前提としてそれぞれの災害の特徴に関して3つのポイントから整理をしたいとおもいます。

●どんな被害があったの?

東日本大震災)マグニチュード9.0の地震と、それに伴って発生した東西200kmにも及ぶ津波による大規模地震災害。
この地震によって福島第一原子力発電所事故が起きた。

熊本地震)同じ場所で震度7を2回観測したという史上初かつ局所的な震災。主な交通を担っていた「阿蘇大橋」や熊本のシンボルとも言うべき「熊本城」の被害があった。

 

●どのくらいの方が被災されたの?

東日本大震災)震災による死者・行方不明者は約18,456人(震災関連死を除く)
建築物の全壊・半壊は合わせて400,326棟
震災発生直後のピーク時においては避難者は40万人以上

熊本地震)震災による死者50人(震災関連死を除く)
住宅の全壊が8,125棟、半壊が28,424棟、一部破損が133,140棟
避難者は最多で18万3千人以上

 

●注目された課題はなにがあったの?

東日本大震災)女性や障がいのある方への物資支援の遅さ、SNSによるウソやデマ

熊本地震)避難所に入れず車中泊やテント泊をする被災者

 

東日本大震災を経験された4人のはなし

それぞれの災害の特徴を整理したうえで、最初に東日本大震災を経験した4名の方に当時の体験とそこから感じたことを教えていただきました。東日本大震災は3月11日という寒い季節の、午後2時46分に起きています。これから教えていただく内容はその寒い時期の夕方から、避難されるところまでの実体験です。

 

宮崎課長

3.11のときは免震ビルにいたのであまり揺れなかったし、モノは倒れなかったです。

帰宅命令がでたので歩いて帰ったんですが、その時にはもう日没になっていて、マンションの階段が全く見えなかったのを覚えています。その時に鍵と一緒につけていたミニ懐中電灯のキーホルダーを持ち歩いていてよかったと思いました。

家に到着し、「津波が来とるとよ」という電話があってことの重大さがようやくわかりました。旦那の会社が沿岸部にあったのでそこまで行ったのですが、土地だけが残っていて、他にはもう何も無くなっていました。その時はもう「宮崎家は一家全ておわったな」とおもいました。
家には、いくらか野菜などのストックがあったので、災害発生直後からアイスパックのようなものを野菜と野菜の間に挟んでおきました。そのおかげで2日くらいは食べることには不自由しなかったです。
先のことを考えると不安で不安でしかたない。今日の事だけを考えて、精一杯毎日を暮らしていました。
いまは、トイレットペーパーのストックと、アクアクララのような水は常備するようにしています。

 

佐々木主査

震災当時、秋田県にいました。仕事の都合で平日はウィークリーマンションに宿泊して、金曜日に岩手にある自宅に帰るような生活をしていました。あの日、「娘さんが保健室で休んでいるので迎えに来てください」という連絡が学校からあったので、迎えに行くために岩手に入った時くらいに震災に遭いました。緊急地震速報が鳴り響き、道がぐねんぐねんうねっていて…。普段30分のところが2時間かかったのを覚えています。自宅も家のなかがぐちゃぐちゃでした。

ただ、雪の多い地域なので大雪時・停電時のための「備えのリュックサック」を元々つくっていたので、それをつかって生活していました。リュックを置く場所を元々きめていたので探し出すことなくみつけられたのは日々の防災の甲斐あってだとおもいます。あと、懐中電灯やカイロがとても役立ちました。

 

相原主査

私は震災当時、石巻にいました。正直、震災前から地震はよくあるし津波警報がしょっちゅうあって。もう狼少年のようになっていたので、今回も「まあいいや」となっていました。
そう気を許した時に地震がきて、その後、津波の第1波が足のくるぶしくらいまできていました。一度逃げた後にみんなの気持ちやドタバタが落ち着いたので、避難所になっている体育館に荷物などをもっていくため家に戻った人が第2波にもっていかれてしまいました。
私たちのまわりでは、津波で流されて亡くなった人よりも、津波によってアスファルトがはがれ、それとともに巻き込まれて亡くなられる方が多かった。津波の波は普通の波とは違うんだともっと知って欲しいです。そして、とにかく既存の避難のルールを破ってでも自分の身を守ったほうがいいとおもったんです。

 

瀬川社員

当時私は、東北営業本部で仕事をしていました。

私は普段からの備えなんて全くしておらず防災意識は高くありませんでした。あの日も帰宅命令があったので、そこまで意識せず自転車で通常どおり帰っていました。

それこそ全く何の備えもしていなかったので、家はぐちゃぐちゃで、何がおきているかわからなかったです。食事の代替え品もないし、懐中電灯もなかったので真っ暗。どうしようもなかったです。
それから、息子の友達のママが息子を家につれていってくれていたことが張り紙を見てわかったので息子を迎えに行きました。そのママはしっかり備えをしていて、私が「何もないんだ」と言ったら、ろうそく・電池・食べ物などをくれて、それでようやく1日を過ごすことができました。
明るくなってからは、息子がどう災害と向き合えるか心配していたのですが、息子と友達が街の中に出て行って「あっちになにがあった、こっちになにがあった」と探しまわっていたのを覚えています。彼らなりに生きるために何が必要か考えながら探し、学んでいるようでした。

――みなさんからお話しいただくひとつひとつが、5年前の事だとは想像もできないくらい今も心と記憶に残るものとなっていることが伝わりました。そして時が経ち、学びにかえ防災に活かされていたり、家族の中での教訓となっているそうです。

 

熊本地震を経験された7人のはなし

そしてここからは、熊本地震で被災された方々にお話しいただきます。今もなお避難生活を余儀なくされている方や、話す中で目に涙を浮かばせながらお話しされる方もいらっしゃいました。震災の爪痕は外から見るよりも深く根深いことだとさらに感じます。

局所的な被害だからこそ、住まれているところによって被害が大きく異なることも特徴です。

 

林社員

あの時、実はマンションの9Fでお風呂にはいっていたんです。

横揺れと縦揺れでなにがあったかわからなかったんですが、主人が「大丈夫か」と心配して来てくれました。
リビングにいくと家の中がぐちゃぐちゃになっていて、「まさかこれ片づけなきゃいけないのかー」とおもっていたら余震。次は天井から水が落ちてきて水浸し。外に出たら人がたくさんいて、エレベーターも止まっていました。

その時に、広報車が「近くの市民センターにいってください」と放送していて、聞くなり貴重品と携帯だけをもって移動しました。
私たち夫婦は、次の日から姉の家に避難しました。そうしたら、姉の家で本震がきてしまって…。東日本大震災の津波を想像してしまい、泣く泣く車で沿岸部から離れるように逃げました。

いまは民間の借り上げ住宅に住んでいます。必ず持っていかなければいけないものだけはひとつにまとめています。ここからそのマンションをどう住むのか、どうしていくのかなどの相談をしていかなければならず先々がとても不安です。仕事をしているから仕事にきているときだけ気がまぎれるのでよかったです…。

 

佐浦社員

前震のときは、特に家のなかは散乱したりしなかったから、家族で「こわかったねー」くらいで終わったんです。
ただ、それからちょっと気になったので水2リットルを1ケースくらいだけ備えました。

そこから、早めに帰って熟睡していたところにとてつもなく大きい揺れがきたんです。揺れがおさまってから、外に出ようと思ったら扉があかなくて。
ここからが災難で、携帯も枕元に置いていなかったから明かりがないし、普段つけているメガネの場所もそういえばどこにあるかわからなかったです。あとは、車の鍵もどこかに飛んで行ってしまってどこにあるかわからず車で逃げることができなかったんです。

とにかく小学校にパジャマのまま、毛布だけはおって歩いて避難しました。でも小学校は深夜だから鍵もあいていない。運動場に徐々に人が集まっていったんですが、体育館があくまでの1~2時間外で待機しているあいだに、地面に座れるためのブルーシートなど持っておけばよかったと後悔しました。とにかく、大きな地震1回で気を抜いてしまっていたのがミスです。
実は、余震があるたびに友人知人からの安否確認が何回も何回もあったのですが、それが一番ストレスでした。「それどころじゃない!」って…。

 

宮本社員

私は益城町に住んでいます。自宅に着き、玄関をあけて階段をあがろうとしていたその瞬間、揺れを感じました。

大声で「だいじょうぶでー」といって家の中の家族に安否を確認して、なんとかみんなの無事を確認できました。
停電になりましたが、10〜20分で電気はつきました。近くの家の老人の家を見回りに行ったのですが、家がぺしゃってなっていました。

私は食品の備えなんて全くしていなくて、訳も分からず毛布とポテチと猫をもって小学校へ車で避難したんですが、車に乗っている間にまた余震がきたんです。すごく揺れて、道は亀裂がはいり、電線はさがって明かりはバチバチいっていました。
避難所となっている体育館の中では、被害が大きかった益城町ということもあって支援物資はすぐ届いて、特にカンパンと水はすぐとどきました。ごはんは2日目くらいにとどいたかな。

ただここからが避難者が多い避難場所の大変だったところで、ちょっと離れると次の避難者がやってきたりと場所の確保がとにかく大変

ごはんも自衛隊の方々は訓練されているからすごく整っていてスピードが速かったんですが、それをもらうのが1~2時間も立って並ぶんです。
仮設トイレは、10個に対してだいたい300人が使用するのでまたそれも並ぶ。雨の時は傘をさして並ぶ。高齢者用のトイレとかあったらよかったのにとおもいました。かわいそうだった。

 

藤芳社員

私は熊本市内の北区にいるので比較的地震の被害が少ないエリアでした。隣に娘家族がいたので安心していたし、停電することも、断水することもなかったです。何かあった時のために、ベッドの下に靴と夜逃げできるくらいの準備はしておいてました。
揺れの後、近くの小学校に避難したんですけど、小学校が解放されていなくて、みんな入れずどんどん帰されてしまっていました。支援の人の車と、物資や水を求めて移動する車で大渋滞だったし、緊急時の避難場所となっている所と住民の連携がとれていないなとおもいました。
その光景をみて、私たちのところは全然どうもなっていないのが申し訳なくなっていました
今は、水2リットルの6本入りを2ケース、懐中電燈、体を拭くウェットティッシュ、サランラップと紙皿をストックしています。特に、お米を研ぐには水2リットル使うから水は多めにストックしています。

 

福島社員

私は、益城に住んでいます。うちの地域は、全体の7割が全壊でした。次の日から会社になんていけないですし、ゴールデンウィークまでお休みをもらっていました。

前震は外食して家にかえり、ゆっくりお茶を飲もうとしたときに揺れました。もうなんというか、上も下も右も左も分からないくらいゆれたんです。

携帯、いつものバッグ、iPadをもって家の外に飛び出したんですが、家をでるときは鍵をかけませんでした。でも泥棒がすごく多くって…。鍵が出来ないなりに雨戸をしめてガムテープでとめていました。「○○にいます」という張り紙をはると中にいないことが知られてしまって、盗まれるのではと思ったので貼らなかったです。
しばらく揺れがあって家には入れませんでしたが、プロパンガスは全体の元栓をしめないといけないよと、地域の消防団のおじちゃんたちが教えてくれて止めに戻りました。町内会は自分たちの世代(20-30代)はほとんど繋がりはなかったけれど、同級生たちが消防団にいるので唯一の地域の繋がりは消防団だったんです。

それから避難して車の中で車中泊をしたんですが、ラジオやワンセグはついたけれど、いまいち被害の全容はわからなかったです。ただ、サイレンの音はひっきりなしだったのを覚えています。なんか、動植物園からライオンが逃げたとか、クレアというショッピングモールが燃えているとか、デマも流れていました。
朝起きて、明るくなってみたら電信柱が全部倒れていて、道もすごい波を打っていました。それから妹の家に避難して、落ち着いたこともあって気ままにビールのんでたら本震がきたんです。妹の家は新築だったんですが、それなのにミシミシいってしまうくらいだったので、近くの小学校に逃げました。

小学校では、校長先生が応援の卒業生を呼んだり、トイレの使い方を決めたりしていました。避難所におけるリーダーの重要性を感じたのもその時です。他の避難所は使いっぱなし流しっぱなしだったと聞いています。

 

深川社員

私は、ちゃんと全部備えているって思っていたんです。ただ、普段見ないところに備えていたので、いざ本震があったら余裕がなくて体一つで逃げました。しかもいざ開いてみると、火や水がないと食べられないものばかり備えていて意味がなかったんです。
避難所にも行ったんですが、市とボランティアと市民が喧嘩をしていました。数少ない物資を誰を優先的に配るのかという基準でもめていたり、誰が統率するのかなどをずっと言い争いのようにしていました。

 

村田社員

私の家には娘が2人いるんですが、食器が落ちる音と揺れで娘が過呼吸になってしまいました。
東日本大震災、熊本地震、それぞれの災害の状況も違えば、それぞれの住んでいる場所や誰とその時一緒だったか、そして防災対策の状況からも被害の大きさが違うことがわかります。

どなたの話を伺っても、事前に対策をしていることの重要性と、発災時にその瞬間から行動しているかどうか、それを安心せず気をつけ続けているかどうかでも変わることがわかりました。

 

さいごに

東日本大震災、熊本地震でお亡くなりになられた方々、ご遺族の皆様に対し謹んでお悔やみを申し上げますとともに、被災された皆様に心よりお見舞いを申し上げます。

また、東北と熊本の一日も早い復興を願っています。
どちらの地域も、まだまだボランティアや支援、そして助けあいが必要です。
お互い無理して元気を装ったり、疲弊してまでも行動を起こす必要はないとおもいますが、私は一人一人ができるときにできることをしあって助け合っていく社会になったらいいとおもっています。
どちらの災害も、「想定外」であったと多くの人が口にします。
ただ、この日本は世界中の中でも4つのプレートの上になりたつ災害の多い国であり、次にいつどこでどのような災害が起きてもおかしくない国となっていることを、日本で暮らす私たちは知っておかなくてはいけないと思っています。

まず自分自身と自分の大切な人の防災を。
大切な人が元気でいてほしいから。大切な人との時間をこれからも共にしたいから。

私は防災ガールの活動を継続し、多くの人が次に来る災害に向けて備え、毎日を安心安全に暮らせるようになったら嬉しいです。

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